今日妹の陸上大会を見に行ってきた。
妹は高2で短距離だ。
ちなみに俺は長距離。
今日はマイルリレーという一人400メートル走るリレーに出た。
決勝では妹はアンカーを走った。
アンカーにバトンが渡ってもレースは混戦状態が続いた…
第三コーナーを抜けた瞬間妹が一人抜き去った。
俺は思わず泣いてしまった。(抜いたのは俺の母校だったから多少複雑だったけど)
妹の走りを見ていたら、高校時代に毎日がむしゃらになって走っていたのを思い出した。
自分が陸上と出会ったのは中学へ入ってからだ。
中1のころはどの大会もなかなかの成績で周りからも結構期待されていたように思う。
中2になりタイムが思うように伸びなくなり、その悔しさで無茶な練習をして怪我をするという悪循環を繰り返していた。
中3になり引退が近づいてきた。
焦りと不安の中での毎日が続いた…
しかし、四月の終わりになりようやく努力が報われ始めた。
七月になってついに最後の大会がやってきた。
何度も県大会に手が届きそうなところまで来ていたものの、一度も出場したことはなかった。
何とかして、県大会に行きたい・・・
その一心で最後のレースに臨んだ。
結果は3位。
1位は全国選手だったから勝てるはずが無かったが、俺は最後の100メートルの混戦を競りに競ってゴールした。
初めての賞状、初めての県大会。
心のそこからバンザイした。
その年の駅伝も何とか念願の県大会に出場することができ、満足のいく結果で中学の陸上生活は幕を閉じた。
高校受験も無事終え、入学して迷うことなく陸上部に入った。
しかし、入部してすぐ問題が起きた。
中学の頃から自分に声をかけてくれていて、俺が指導をと願っていた先生が転任してしまったのだ。
新しく来た先生とはまったく合わなかった。
入学早々小言を言われ、練習メニューの作り方、年間方針、個人種目ではなく駅伝を重視する姿勢など、根本から自分の考えていることと正反対だった。
そうして始まった一年目は反発の毎日だった。
あの頃俺は相当な馬鹿だった。
確か6月頃には怪我をしていた気がする・・・
自分のやり方で強くなってやろう、などと馬鹿なことを考え無茶な練習をし、怪我をするということを例のごとく繰り返していた。
高1の個人種目はそんな感じで大会に出場することが目標であるかのごとく終わった。
冬になり駅伝の季節がやってきた。
高校の駅伝は中学とは違い県大会から始まり70チームで争われる。
6位までが東海駅伝へ、20位までが名岐駅伝という岐阜〜名古屋間で行われる(テレビ放映まである)大会に出場することができる。
1年目の駅伝、俺は2区を走ることになった。
まあまあの走りでレースを終え、結果は総合で18位(確か?)
だった。
1年目にして名岐のキップを手に入れた。
しかし、名岐駅伝当日、俺の出番は無かった。
大会一ヶ月前、無理のし過ぎで膝を壊したのが原因だった。
痛みをこらえて毎日アピールしていたが、先生も不安だったため前日のメンバー発表で俺は外された。
悔しかった。
2年になってからは心を入れ替え、個人種目のことは視野に入れず駅伝のことだけ考えて走るようになった。
先生の指導もきちんと聞くようになり、しっかり練習したことで自然と個人の記録も伸びた。
迎えた駅伝シーズン。
県駅伝の調整にでたトラックレース5000mで自己ベスト1分半縮める高記録を出した。
そして意気揚々とクールダウンをしていたらまさかの事態・・・
肉離れしてしまった。
雨が降っていたせいもあったのだろう。
最悪だった。
幸い軽症ですんだものの、自分に腹が立ったのと不安とで、応急処置をしてもらいながら雨の中泣いていたのを覚えている。
先生は今年は俺がカギだと言ってくれ、当日は走ってもらうといってくれていたので、その言葉だけを信じてリハビリに励んだ。
痛み止めでごまかしながら練習した。
しかし当日は走れなかった。
大会の少し前、学校で放課に先生にあって出してもらえるか思い切って聞いてみた。
名岐を見据えているから今回は我慢してくれと。
名岐では必ず走ってもらうからって。
視界が一気に崩れた。
授業をサボって泣き続けた。
悔しい。
走りたかった。
頭にはそれしかなかった。
大会当日チームは総合で8位になった。
公立高校としてはすごい快挙だ。
本番では選手をしっかりサポートできたから良かった。
みんなも俺の気持ちとともに走ってくれていた。
見ていてすごい伝わってきた。
最高の仲間たちだ。
年があけ、気持ちを切り替えて走っていた矢先、またしても怪我をした。
嘘に思えるかもしれないが、ホントだ。
嘘であってほしいと何度も願った。
怪我の状態は後になって診断してもらってわかったことだが、
手術しても治らないとのことだった。
今までで最高にひどい怪我だった。
歩くのすら困難だった。
時間が無かった。
走るしかなかった。
痛み止めを飲んで死にもの狂いで練習した。
原因がわからない怪我と戦いながら、苦痛の表情で毎日走っていた気がする。
すべては名岐駅伝のために・・・
一生歩けなくなってもいいと思った。
走り終えたら死んでも構わないと思った。
大会に出られなくなったら、今までの努力の意味が無い。
しかし、駄目だった。
前日の夜、ホテルでのメンバー発表で俺の名前は呼ばれなかった。
またしても前日にメンバーから外されてしまった。
みんなの前で泣いてはいけないということは、泣き出してから気がついた。
あれほど泣いたことは今までに無いと思う。
当日はサポートに徹していた気がするけど、ほとんど上の空だった気がする。
大会が終わってからしばらく部活をサボった。
生まれて初めてサボった。
走りたくなかった。
生きる気力も失っていた。
足の痛みが常に現実を押し付ける。
気がついたら泣いていた。
もうやめようと思った。
体も心も灰と化していた。
五月の引退レースまで精神的にも肉体的にも持つわけが無かった。
中学の頃の先生(俺が目標としている)に相談して、どんな形でもいいから五月まで続けることを約束した。
結局最後は本気になって練習し、最後の大会はしっかりと走って終えることができた。
今思えばやめなくて本当に良かった。
俺はほんとに高校の陸上生活は怪我で始まって怪我で終わった。
あの頃は、違う高校に行っていたら・・・あの時ああしていたら・・・なんてことばっか考えていた。
今は全てがあれでよかったと思っている。
先生にもとても感謝している。
俺は高校の陸上を通じて最高の仲間と出会えた。
それが何よりもうれしい。
そして怪我で味わった苦しみから学んだこと、仲間の大切さを学んだことは自分が将来指導者になったときに必ず役に立つと思う。
いや、それを伝えたい。
それを伝えるために教師になりたい。
豊橋の競技場をみるとわくわくする。
なんか笑顔になる。
この先ずっとそれは変わらないと思う。
陸上と俺・・・
この先もずっと共に歩いていくに違いない。
いや、走っていくんだろうな(笑)
終わりなきゴールへ向かって・・・
妹は高2で短距離だ。
ちなみに俺は長距離。
今日はマイルリレーという一人400メートル走るリレーに出た。
決勝では妹はアンカーを走った。
アンカーにバトンが渡ってもレースは混戦状態が続いた…
第三コーナーを抜けた瞬間妹が一人抜き去った。
俺は思わず泣いてしまった。(抜いたのは俺の母校だったから多少複雑だったけど)
妹の走りを見ていたら、高校時代に毎日がむしゃらになって走っていたのを思い出した。
自分が陸上と出会ったのは中学へ入ってからだ。
中1のころはどの大会もなかなかの成績で周りからも結構期待されていたように思う。
中2になりタイムが思うように伸びなくなり、その悔しさで無茶な練習をして怪我をするという悪循環を繰り返していた。
中3になり引退が近づいてきた。
焦りと不安の中での毎日が続いた…
しかし、四月の終わりになりようやく努力が報われ始めた。
七月になってついに最後の大会がやってきた。
何度も県大会に手が届きそうなところまで来ていたものの、一度も出場したことはなかった。
何とかして、県大会に行きたい・・・
その一心で最後のレースに臨んだ。
結果は3位。
1位は全国選手だったから勝てるはずが無かったが、俺は最後の100メートルの混戦を競りに競ってゴールした。
初めての賞状、初めての県大会。
心のそこからバンザイした。
その年の駅伝も何とか念願の県大会に出場することができ、満足のいく結果で中学の陸上生活は幕を閉じた。
高校受験も無事終え、入学して迷うことなく陸上部に入った。
しかし、入部してすぐ問題が起きた。
中学の頃から自分に声をかけてくれていて、俺が指導をと願っていた先生が転任してしまったのだ。
新しく来た先生とはまったく合わなかった。
入学早々小言を言われ、練習メニューの作り方、年間方針、個人種目ではなく駅伝を重視する姿勢など、根本から自分の考えていることと正反対だった。
そうして始まった一年目は反発の毎日だった。
あの頃俺は相当な馬鹿だった。
確か6月頃には怪我をしていた気がする・・・
自分のやり方で強くなってやろう、などと馬鹿なことを考え無茶な練習をし、怪我をするということを例のごとく繰り返していた。
高1の個人種目はそんな感じで大会に出場することが目標であるかのごとく終わった。
冬になり駅伝の季節がやってきた。
高校の駅伝は中学とは違い県大会から始まり70チームで争われる。
6位までが東海駅伝へ、20位までが名岐駅伝という岐阜〜名古屋間で行われる(テレビ放映まである)大会に出場することができる。
1年目の駅伝、俺は2区を走ることになった。
まあまあの走りでレースを終え、結果は総合で18位(確か?)
だった。
1年目にして名岐のキップを手に入れた。
しかし、名岐駅伝当日、俺の出番は無かった。
大会一ヶ月前、無理のし過ぎで膝を壊したのが原因だった。
痛みをこらえて毎日アピールしていたが、先生も不安だったため前日のメンバー発表で俺は外された。
悔しかった。
2年になってからは心を入れ替え、個人種目のことは視野に入れず駅伝のことだけ考えて走るようになった。
先生の指導もきちんと聞くようになり、しっかり練習したことで自然と個人の記録も伸びた。
迎えた駅伝シーズン。
県駅伝の調整にでたトラックレース5000mで自己ベスト1分半縮める高記録を出した。
そして意気揚々とクールダウンをしていたらまさかの事態・・・
肉離れしてしまった。
雨が降っていたせいもあったのだろう。
最悪だった。
幸い軽症ですんだものの、自分に腹が立ったのと不安とで、応急処置をしてもらいながら雨の中泣いていたのを覚えている。
先生は今年は俺がカギだと言ってくれ、当日は走ってもらうといってくれていたので、その言葉だけを信じてリハビリに励んだ。
痛み止めでごまかしながら練習した。
しかし当日は走れなかった。
大会の少し前、学校で放課に先生にあって出してもらえるか思い切って聞いてみた。
名岐を見据えているから今回は我慢してくれと。
名岐では必ず走ってもらうからって。
視界が一気に崩れた。
授業をサボって泣き続けた。
悔しい。
走りたかった。
頭にはそれしかなかった。
大会当日チームは総合で8位になった。
公立高校としてはすごい快挙だ。
本番では選手をしっかりサポートできたから良かった。
みんなも俺の気持ちとともに走ってくれていた。
見ていてすごい伝わってきた。
最高の仲間たちだ。
年があけ、気持ちを切り替えて走っていた矢先、またしても怪我をした。
嘘に思えるかもしれないが、ホントだ。
嘘であってほしいと何度も願った。
怪我の状態は後になって診断してもらってわかったことだが、
手術しても治らないとのことだった。
今までで最高にひどい怪我だった。
歩くのすら困難だった。
時間が無かった。
走るしかなかった。
痛み止めを飲んで死にもの狂いで練習した。
原因がわからない怪我と戦いながら、苦痛の表情で毎日走っていた気がする。
すべては名岐駅伝のために・・・
一生歩けなくなってもいいと思った。
走り終えたら死んでも構わないと思った。
大会に出られなくなったら、今までの努力の意味が無い。
しかし、駄目だった。
前日の夜、ホテルでのメンバー発表で俺の名前は呼ばれなかった。
またしても前日にメンバーから外されてしまった。
みんなの前で泣いてはいけないということは、泣き出してから気がついた。
あれほど泣いたことは今までに無いと思う。
当日はサポートに徹していた気がするけど、ほとんど上の空だった気がする。
大会が終わってからしばらく部活をサボった。
生まれて初めてサボった。
走りたくなかった。
生きる気力も失っていた。
足の痛みが常に現実を押し付ける。
気がついたら泣いていた。
もうやめようと思った。
体も心も灰と化していた。
五月の引退レースまで精神的にも肉体的にも持つわけが無かった。
中学の頃の先生(俺が目標としている)に相談して、どんな形でもいいから五月まで続けることを約束した。
結局最後は本気になって練習し、最後の大会はしっかりと走って終えることができた。
今思えばやめなくて本当に良かった。
俺はほんとに高校の陸上生活は怪我で始まって怪我で終わった。
あの頃は、違う高校に行っていたら・・・あの時ああしていたら・・・なんてことばっか考えていた。
今は全てがあれでよかったと思っている。
先生にもとても感謝している。
俺は高校の陸上を通じて最高の仲間と出会えた。
それが何よりもうれしい。
そして怪我で味わった苦しみから学んだこと、仲間の大切さを学んだことは自分が将来指導者になったときに必ず役に立つと思う。
いや、それを伝えたい。
それを伝えるために教師になりたい。
豊橋の競技場をみるとわくわくする。
なんか笑顔になる。
この先ずっとそれは変わらないと思う。
陸上と俺・・・
この先もずっと共に歩いていくに違いない。
いや、走っていくんだろうな(笑)
終わりなきゴールへ向かって・・・
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