僕がもっとも危惧していること。
それは亀田興毅の子供への影響力だ。
なぜなら、いま子供たちにもっとも影響力があるのは、親でもなく先生でもなく、先輩や友人でもなく、TVスターだから。
「テレビに出ている人が、雑誌に出ている人はみんなかっこいい。そうなることでいい人生を送れるに違いない。」そんな風潮が蔓延している。
間違っているが、その間違いの原因はとにかく金だ数字だと頭を腐らせた大人にある。
子供を一方的に批判するのは甚だおかしい。
そして、やくみつるもあれだけの批判をするのなら、批判する内容以前にまずは自分の形振りを改めるべきだろう。
仮にも自分自身もマスメディアで生かされているのだから。
あんな物の言い方は絶対に間違ってる。
話は元に戻るが、とにかく子供たちが彼の「パフォーマンス」だけに目をやらないか心配だ。
実際は、そんな表面的な部分しか見たり、理解したりすることができないのが子供だろう。
もっとそういうことを理解して欲しい。
亀田史郎が「青春時代なんだからいいじゃないか。」と言っているのにはショックを受けた。
青春時代だからと言って、あんな身なり、態度をした子供が同じクラスにいたらどうだろう。
真面目に勉強している子供はどうなるんだろう。
何かを言った、何かをした、というだけでなく、ああいう格好、態度をする人間がクラスにいるだけで、その場の雰囲気は汚され、犯されるということをわかって欲しい。
亀田興毅はメディアで知る限りではホントによく練習している。
世界戦も彼の頑張りには心を動かされた。
特に、「お母さん、産んでくれてありがとう」の言葉には感動した。
判定のことに関してはよくわからない。
ジャッジの公平な判断かもしれないし、八百長なのかもしれない。
そんなことは誰にも何も言えないだろう。
ジャッジにしかわからないこと。
スポーツの世界では今回に限ったことでもないはずだ。
周りが終わったあとに騒ぎ立てるのはおかしいだろう。
それ以前に、なぜあの必死の頑張りに、最後の「お母さん、産んでくれてありがとう」の言葉に注目しないのか。
人間味があふれてていいじゃないか。
あんな素敵な言葉、ジャッジの正誤に無駄な汗水たらす他人を煽るのが大好きな脳みそが私利私欲にまみれ朽ち果てた人たちは一度でも親に言ったことあるのか?
マスコミはもっと社会への影響力を考えるべきだ。
ジャッジの正誤に疑問を投げかける前に、自分達が社会に伝えるべきことの正誤を見つめなおして欲しい。
そして、亀田興毅だけじゃなく、マスメディアに生きる人間はなおさらその立場を、社会への影響力を理解して欲しい。
そういうこともやるべき仕事の一つだろう。
昨年度、教職の授業で大変お世話になった先生がいる。
先生は僕の模擬授業に高評価をくださり、自分としても大学の中では唯一多くの影響を与えてくださった先生だったので、授業が終わったあとも、メールなどで連絡をとり、度々指導をして頂いていた。
その、先生に時間を作っていただき、久しぶりに会って話すことができた。

話の内容は、以前に僕がメールで送ったことに対する見解であったが、先生は僕に、

「公立、私立ということや、・・・県といった勤務地よりも、まずは教師になることが大事だと思う。君にとって教師は職業選択肢の一つではなく、天職だと僕は思うから、2,3年の視野を持ってでもこの道を進んで欲しい。」

とおっしゃってくださった。

本当に嬉しかった。
自分自身この道しか考えてはないけれど、やはり自分の独り善がりなのかもしれない・・・と感じることはあるだけに、大きく背中を押してもらえたような気がする。

頑張ろう。
夢を見た。

メンバー発表で僕の名前が呼ばれる。
オーダー表にも名前がある。
「ついにやった。」そんな思いで号泣してみんなに知らせる・・・

目が覚めて、現実を突きつけられて、
いつも通り悔しくて泣いた。

この22年間と少しの人生の中で、最大の悔い。
それは、高校時代、名岐駅伝を選手として走ることができなかったこと。
僕は6年経った今も、その悔いと共に生きている。

僕は、名岐駅伝出場1年目も、2年目も、特に2年目は大きな怪我をしていた。
「あのときもっと練習しておけばよかったな。」
そんな後悔なら、まだよかった。
だけれど、違う。
やれるだけのことはやった。
練習中も、メンバー発表の瞬間も、片足一生使えなくなってもいいから、走りたいと思ってた。
それくらい、練習もした。

いまも・・・ほんの少しだけれど、やっぱり思ってる。

結局僕の名前が呼ばれることはなかった。
あの舞台に立つことはできた。
でも、走ることはできなかった。

僕はホントに平凡なランナーだった。
中学時代は、駅伝も個人でも県大会に行くことができたから、まあまあだったと言えるけれど、高校時代は走っては怪我をし、走っても予選も通過できないことが大半だった。

そんな中でも両親はよく応援に来てくれていた。

どういう思いで僕の走りを見ていたかは分からないけれど・・・

あの頃の僕は自分のために全力で走ってるっていう気持ちが強かったように思う。
やっぱり走ることは自分の存在意義であり、誇りであったから。

けれど、いま思うと、そんないつも応援に来てくれる両親をはじめ、応援してくれる家族のために走っていたようにも感じる。
高校時代、僕は勉強も全くできないのに、陸上やバンドに没頭して、親を困らせてばかりいた。
怪我をするたびに、すぐ病院だと言って高い治療費を使わせていたし、シューズやウエアなんかを買うときは僕なんかよりずっと実績のある選手と同じようなものを買わせていた。
心のどこかで、そんな自分を見守ってくれる親に何とかして良いところを見せたいっていう気持があったんだと思う。

自分が命懸けで走っていたのに、果たされなかった目標に対する後悔。
そして、あんなクズみたいな自分をずっと見守って、支えてくれた両親を一度も喜ばしてあげることができなかったという後悔。

この二つの悔いは一生背負っていくものだと思ってる。
けれど、僕にとってはきっとこの二つの悔いが糧になっていくとも思ってる。

二年目の名岐駅伝を走ることができなかったとき、生まれて初めて陸上をやめようと思った。
それ以上に生きる意味を見失った。
自分の生きる支えが折れてしまっていた。
それまでの6年間一度もサボったことがなかった部活をサボり続けて、最後に中学時代の恩師を頼った。

「お前は将来必ず良い指導者になれる。その怪我をした挫折や苦しみはお前にしか分かってあげられないことになっていくから。」

そう恩師は言ってくれた。
その頃は、なかなか理解できなかったけれど、いまでこそ、その言葉の意味が分かるようになってきた。

あのころ、僕は名岐駅伝を走ることに本気で命を賭けていた。
全国大会や、国体じゃあるまいし、大げさだとは分かってる。
でも、僕は気持ちの部分では全国選手に負けないくらい走りたいって気持が強かったし、何よりも大きな挫折を何度も味わった。

夢から覚める瞬間、

「その夢の続きを作るのは、自分だよ。」

自分自身からそう言われた。

僕は陸上の指導者になる。
もう絶対に僕みたいな思いだけは選手に味合わせたくない。
僕が名岐駅伝を走ることは二度とできない。
けれど、この夢の続きは必ず自分の手で作り上げる。
最高のサクセスストーリーを僕が育てる選手と共に作ってやる。
そんな思いでいっぱいになった。

20060309

2006年3月9日 future
20060309
木村カエラ 『Circle』

今日になってDVDを見たんだけど、、、

「カエラかわいすぎる・・・」

『リルラリルハ』のPVがメチャクチャ良い。
っていうか、メチャクチャかわいい!!!

一人でニヤニヤしちゃった、、、

-----------------------------------------------------------

今日はボランティアでいつもお世話になっているクラスで、動物園に行ってきた。

とにかく、大変。
あの言うことの聞かなさ・・・学級崩壊。
まぁ、いつものことだけれど。

とにかく自己中心的な子が多い。

行動するときには、自分が中心だと思ってるし、
今日みたいに「社会」というたくさんの人々が共生するテリトリーにおいてさえ、自分が中心だと思ってる。
一番ひどかったのは、横断歩道を渡っているときに、自分が後ろを向きながら歩いていたせいで一般の人とぶつかったのに、

「ぶっ殺す」

の一言。
当然叱ってやったけど、、、

他人には厳しく自分にはとことん甘い。
何か注意すればとても小学二年生と思えないような御託を並べて言い返す。
最後は逆切れ・・・

時期的な原因や、ひょっとしたら病的なものかもしれないけれど、「しつけ」の問題も当然一つにはあるだろう。
地域でのしつけ力の低下、家庭がしつけを放棄して学校の責務だと押し付ける。
だけれど、学校にだって限界がある。
やっぱり、第15期中教審答申にも書かれている通り、しつけとはそもそも家庭でなされるべきものだと思う。
家庭や地域社会で個々にしつけをされていない子供が学級に集まってくるから、あんなクラスができるんだと思う。

もっと親にしっかりしてもらいたい。

それから、自分が塾とかで話したことのある小学校の教員志望のやつはホントにろくなやつがいない。
なんで、小学校の先生になろうと思ったのか聞いてみると、

「かわいいから」

とかフザケタこと言いやがる。

現実を思い知れ。

適当な指導して、そのまま中学校に送り込むってことはその子の一生をダメにするってことわかってんのかな?

人間の人格形成の根本は間違いなく小学校のうちに作られる。
特に何も社会のことなんてわかってなさそうな、一見ただ「かわい」く見える低学年も子供も、はっきり言って、社会も大人もなめくさってやがる。

それくらい現代の小学生は凄い。
だから、本気の指導が必要。

「かわいい」なんて言ってるやつの指導力なんて信用できん。

20060222

2006年2月22日 future
ボランティアをやっていて思ったんだけれど、
これからの学校教育は小・中・高の繋がりが大切だと思う。

単刀直入に言うと、もっと密に連携を図るべきだ。

小・中、中・高の学校で集まって、定例会議とかやった方がいいんじゃないか?

特に、小・中の教職員が一同に集まって、児童、生徒の現状報告とかをし合って、相互理解を深めた方がいいと思う。

これから、中学校教師になるにあたって、一方的に小学校6年間過ごした子供を送り込まれるのは、非常に恐い。

自分は、新しく入学してくる生徒の調査などを事前にすることが新担任の当然の仕事だと考えているけれど、それとは別に定期的に会議を開いて、報告しあわないといけないと思う。

何で、生徒の発育段階を知らないで、教育ができるのか分からん。

中学校教員としての立場での意見だけれど、

まず、中学校の教員は日々の生徒の生活ぶりを小学校教員に報告し、どういった発達傾向、変化が見受けられるか、どんな問題があるか、どういった指導・教育をして欲しいかを伝えたい。
それから、小学校の教員は同じように日々の児童の生活ぶりを中学校教員に報告し、現在どういった指導・教育を行なっているか、また中学校からの報告を受けて今後どうしていきたいかを伝えて欲しい。

すでにこんなことしてるのならゴメンなさい。

けど、とてもやってるとは思えん、、、
「実際、いろいろな与件にとりかこまれながらも、自ら分別し、選んで生きる人間は、逆転の○○だと言ってもよいと思いますす。」という大田堯氏の見解に対する私が考えた意味を、自らの体験を例にして以下に説明する。
 私は、中学校へ入学してから高校を卒業するまでの六年間、陸上部に所属し、日々練習に励んできた。
中一の時に初めて出場した大会では、初めての大会にしてはかなり良い記録を出し上位に入賞することができた。その後の大会でも記録は順調に伸び、途中低迷した時期もあったが、中三の時には個人種目・駅伝共に県大会に出場することができた。
しかし、高校に入学してから私の置かれる立場は一変した。
高校進学においては、中学の頃から自分に声をかけてくれてて、私がぜひ陸上指導を乞いたいと願っていた先生がいる高校を目指した。努力の甲斐あって合格し入学したものの、その先生は自分と入れ違いに転勤してしまい、代わりに入ってきた先生に指導を受けることになった。
新しく入ってきた先生とは、あらゆることに関して全く折り合いが合わず、高一の時は常に反発をしていた。自分のスタイルを貫いていこうなどと愚かなことを考え、無理な練習を繰り返していたために記録を伸ばすどころか、怪我の繰り返しで大会にすら出場できない日々が続いた。そのため、個人種目では全く結果を残すことができず、また駅伝でも県大会は選手として走り、名岐駅伝という岐阜〜名古屋間で行われる(テレビ放映まである)大会に出場する権利を獲得することに貢献したにもかかわらず、肝心な名岐駅伝には大会前に怪我をしてしまいメンバーから外されて走ることができなかった。
高二になってからは、さすがにこのままでは駄目だと反省し心を入れ替え、個人種目のことは視野に入れず駅伝のことだけ考えて走るようになった。先生の指導もきちんと聞くようになり、しっかり練習したことで自然と個人の記録も伸びた。そして、迎えた駅伝シーズン、県大会直前に調整として出た大会で自己ベストを一分半縮める記録を打ち出した。しかし、そのレースが終った後でのクールダウンで肉離れをしてしまい、結局その怪我が長き、当日は走ることができなかった。県大会では仲間が精一杯頑張ってくれた結果、八位に入賞し公立高校としてはかなりの快挙を成し遂げ、再び名岐駅伝の出場権を獲得した。その後、名岐駅伝までは時間があったので、治療に専念することができ、調子も大会に向け上げていくことができた。だが、大会二週間前、とんでもない大怪我をしてしまった。後に分ったことだが、手術しても治らないほどのものだった。しかし、私は歩くのも足を引きずらなければならないほどであったのにも関わらず、痛み止めを飲み毎日走り続けた。「一生歩けなくなってもいい。」という覚悟で大会に出ることだけを考え練習を続けた。でも結局怪我が良くなることはなく、私は走ることができなかった。
その時、名岐駅伝を走ることを人生の目標としていた私は本当に生きる目標を失ったように感じた。大会が終った次の日からしばらく、生まれて初めて部活を無断でサボりだした。授業にも出ず泣き、家でも泣き続けていた。もうこの先どうしていいのか分らないという状態だった。あの時ああしていたら・・・なんてことばかり考えていた。あらゆることにおいて自分は選択をミスし続けたのではないかと、高校生活三年間の全てに対して後悔をしていた。
しかし、いまはどうだろう。心のそこから全てはこれでよかったと感じている。思えば高校の陸上生活は怪我に始まり怪我に終るという本当に苦しい三年間だった。そして、あの頃は三年間で得たものは何もなかったなどと思っていたが、それは大間違いであった。なぜなら、将来自分が教師となり陸上部の監督となったときには、現役時代に輝かしい道を歩み監督となった人とは違い、本当に苦しい経験をしてきた私は、挫折し苦しんでいる選手たちの気持ちを誰よりも理解することができると思っているし、なによりも私は高校三年間、あの場所の陸上部で過ごしたからこそ、かけがえのない仲間たちと出会うことができたからだ。いまでも続けているバンドのメンバーは全員高校が違うのに「陸上競技」というものを通じて出会った仲間であるし、また困ったとき様々な相談をし互いに支えあっているのは、いつも高校の陸上部の仲間である。やはり、「陸上競技」という過酷なスポーツを共にやりぬいた仲間であるからこそ今でも密な関係が続いているのだと思う。そういった、いま自分が大切に思っている人たちは全てあの苦しかった日々と共にいる。これはまさしく、星野富弘氏がおっしゃっている「もしかしたら、失うということと、与えられるということは、となり同士なのかもしれません」という意味なのだと思う。私は、あの頃人生最大の目標であった「名岐駅伝の出場」というものを失ったが、そのことがあったからこそいま自分を支えてくれる「かげかえのない仲間」を得たのである。こういう考えに至るまでには時間はかかったが、今ではますますその思いが強くなっている。
つまり、私がこういった考えに行き着くことができたということが、大田氏がおっしゃっている「逆転の○○」という意味なのではないのだろうか。
 また、大田氏が示している「人間は逆転の○○と言える」という人間観を学び、まずは子供に逆転の発想ができるような教育をしなければならないと感じた。
私が思うに、現代の子供は、何か物事の結果に対して一喜一憂すること自体が少なくなっているのではないだろうか。それは、新学習指導要領の完全実施になって,教育現場においても,それまでの結果重視の評価から過程重視の評価へと大きく流れが変わってきたことなどが原因かもしれない。私は、子供が逆転の発想ができるようになるためには、教育現場において、現在の過程重視の評価方法から以前の結果重視の評価方法に戻す必要があるのではないかと思う。従来ではほとんど結果が全てであったから、「やらない子」の評価は悪く、「やった子」の評価は良かった。そのため、大半の子供のうち、評価が悪かった子は親身にそれを受け止め反省し次はしっかりやろうと思い、また、評価がよかった子はそれを喜びまた次も頑張ろうと思っただろう。結果にこだわるからこそ、その物事に対しての執着心が強くなり、失敗したときには悔しいから今度はより頑張ろうという心持ちになり、成功したときには嬉しいから次はより一層頑張ろうという思いが作用するのではないか。また、結果に執着するからこそ、私のようにその結果に付随する過程について後に深く思いを馳せ、考えることができ、悪い結果に対しても逆転の発想ができるように思う。そもそも、過程など一体誰が評価できると言うのだろう。行動する本人が「頑張った」と言えば、頑張ったに決まっている。過程を評価するという方が酷ではないか。現実問題、日々生活していく上でいくつもの結果至上主義である場を潜らなければならない。社会に求められるものの大半は結果であり、その結果にこだわるからこそ、その過程にもこだわることができるのだ。過程だけにこだわっていては、物事が成功した、失敗したということに対して、「嬉しい」「悔しい」といった感情を抱くことができなくなるし、結果に対して「嬉しい」「悔しい」といった思いを持った上で過程に目を向けなければ、逆転の発想などできないのだ。
以上が、大田氏が示す人間観から学び、教育のあり方について考えたことである。

いまどきの

2004年9月4日 future
■NHK
『いいもんだよ、生きるって』という水谷修先生の教師になってからの半生が描かれている番組がやっていたから思わず観てしまった。
水谷先生は巷では『夜回り先生』と呼ばれている先生だ。
先生のことを知ったのは一年ほど前だろうか。
確かテレビで知ったんだと思う。
先生は教育者としてまさに鏡ではないかと思う。
現在の多くの教師が見てみぬふりをしている問題(主にドラッグなど、世間一般からは『汚い』と観られ、学校教育とも無縁だと思われがちな問題)に真正面からぶつかっている。
けど、教師の側からしたら見てみぬふりをしているわけでも、逃げてるわけでもない、そこまで手を回す時間が無いのだ、と言われてしまうかもしれない。
それはやっぱり自分が教師になってみないと分からない。
でも、水谷先生がやっていることまでは無理でも、何かやれることがあるんじゃないか?
果たしてドラッグに関して、現在の若者の夜の遊びについて、私生活について、どれほど知っている先生がいるだろうか。
自分はいま中三の女の子(私立・女子中)の家庭教師をやっている。
つい最近、最近の中学生について話を聞いてみた。
いまから書くことを読んでも大半の人は嘘だと思うだろう。

自分が教えている生徒は見た目はホントにおとなしいとしか言いようが無い。
まぁ、マニキュアをしていたり、ギャルっぽい服を着ていたりすることもあるけど、髪は真っ黒だし、ピアスもしていなければ、眉毛も普通だし、化粧も平日にやっているのは見たことが無い。
とにかくおとなしい、としか言いようが無い。
でも、そんな一見「おとなしい」女の子が実は中一からタバコも酒もやっていた。
タバコはつい最近までずっと吸っていたようだ。
その子の友達の話も聞いてみた。
最近では中学生が普通に合コンをやるらしい。
相手は高校生から大学生まで様々らしい。
また、クラブに行くことも普通らしい。
生徒の友達の一人は渋谷のクラブDJと付きあっているそうだ。
そのクラブには他にも中学生が頻繁に出入りしていると聞いた。
彼氏は他にも付き合っている女がいると言うことも知っていて付き合っているらしい。
そして、一度その子がクラブを貸しきってレ○プ計画をしたことまであるようだ。
むかつく女友達を誘い出し、あらかじめ男の知り合いにレイプするように頼んでおいたという。(失敗に終わったが)
極めつけは、そのクラブのトイレとかでは中学生とクラブに来ている男がやりまくっている、と聞かされた。
もうここまできたら世も末だな。
普段の学校でも女しかいないということで、教室にはエロ本が散乱しているらしいし、いじめを受けている女の子は服を脱がされたりしているという。
一番ショックだったのは、いま書いたほとんどすべてのことを、学校の教師は皆知っていると言うことだ。

学校がある意味が果たしてあるのだろうか。
私立の女子中だから、これは特別なケースじゃないのか?
東京という遊ぶ場所がたくさんあるからじゃないのか?
という人もいるかもしれない。
しかし、おかれた境遇が違うにしても、今書いたような中学生とまったく違うと言い切れるか?
俺はもういまの中学生が考えている内容に大差は無いと思う。
いま書いたことは、どの中学生も考えそうだし、行動しそうなことだと思う。
それほど、自分が中学生だった頃と比べいまの中学生は変わってしまったと思うし、娯楽に関する情報も(間違っている)錯綜しているように身をもって感じる。

自分が将来教師になって、水谷さんのようなことが出来るか?きかれれば答えられない。
むしろ自信は無い。
言い訳かもしれないが、それは水谷先生のやり方だし、水谷先生の生き方だと思うから。
でも、水谷先生が向かっているような問題から目をそむけるようなことはしないで、自分なりのやり方を探し、実行して行けたらいいと思う。
日本のほんの片隅でいいから、精一杯立ち向かって生きたいと思う。
■9月4日の
水谷さんの番組終了後、この blog にも検索エンジンを通じて来てくれた方がいるようです。
ぜひ日記を読んでの感想、番組を見ての感想をBBSに書き込んでください。
■6月会
昨夜開催された6月会は非常に良かったんじゃないでしょうか?
新たな岡本&生駒の加入が・・・いや、生駒さんの加入の効果でしょう。
相変わらずの色んな暴露話や、俺の数々の誤解を紐解き・・・
ホントに誤解なんだから。
次は生駒さんの暴露とか聞きたいね(笑)
いや、岡本だな!!!
何にしてもこれからも継続してきましょう!
■道徳教育の研究
今日は石川県のある小学校で勤務している方の実践ビデオを観た。
その学級では『手紙ノート』というものを使っている。
手紙ノートは、思ったこと、感じたことをノートに書きクラスのみんなに発表するというものだ。
ある生徒のおばあちゃんが亡くなって、その生徒は4日ぶりに登校し、みんなの前でおばあちゃんの死について手紙ノートに書いてきたことを話す、という場面があった。
その子の発表を機に、3歳の時に父親を病気で亡くした女の子が、長い間自分の胸のうちにしまい込んで話すことのなかった父親の死について涙ながらに語りだす。
その女の子は父親がいないことを周りから変な目で見られるのではないか、という思いから話せずにいた。
話せずに一人悩み、苦しんでいた。
ようやく自分の思いを話す時が来た彼女は『生』がいかに大切であるかを真剣に語っていた。
俺は心底すごいと思った。
小学生であそこまで話せる子供はいないと思うし、ましてや大学生でも『死』について話せないやつは多いと思う。
年が明け、クラスの男の子のお父さんが突然亡くなった。
子供たちはその子に何をしてあげられるかを話し合う。
小学生には重過ぎる内容だろう。
結局子供たちは、全員で手紙を書き、お菓子を届けることにした。
その場面を観ていた俺の前に座っていたクソ女が、
「お菓子だってぇ、小学生はかわいいよねぇ」
とか授業中にもかかわらず堂々と化粧をしながら、馬鹿笑いをしながら友達と話していた。
哀しすぎた・・・
どうしたらこんなバカが生まれるんだろうか。
なんでこんなバカが生きているのに、惜しくも死んでいく人がいるのだろうか・・・
いくら死が人の運命だからといっても、あんまりだ。
あのクソ馬鹿女は別として、やはり学校教育では『命』についてしっかりと伝える必要があると改めて思った。
このクラスの子供たちのように、『命・生・死』についてしっかりと考えられる、しっかりと自分の意見を言うことのできる子供を育てていかなければならないと思う。
そうすれば今横行している少年犯罪も減るのではないか。
まえにも書いたと思うけど、国語・算数・・・の教育は二の次だと思う。
それよりも教えていかなければならない事はたくさんあるし、今こそそういったことを声を大にして伝えていかなければならないときだと感じた。
■携帯電話
先週の手帳に引き続き、今日は携帯を落とした。
ホントに最近どうかしている・・・
すぐ見つかったから良かったけど。
ベンチでサークルの人と話していて、バッグにしまったつもりがそのまま置いてきてしまった。
全く気付かず、授業が始まる直前になって、しかも校舎を移動してからないことに気が付いた。
まさか忘れてきたとも思わなかった。
考え事してたのがいけなかったのかなぁ・・・
いまちょっとした悩み事があるんです・・・
今日『道徳教育の研究』の授業で文部科学省が新たに行なっているファシズム教育の実態を知ってしまった。
それは『心のノート』といわれるものだ。
と言っても、何のことか分からない人が多いと思うので簡単な説明文を引用したので読んでいただきたい。
文部科学省が2002年4月から、国公立・私立を問わず全ての小・中学生に配布しはじめた道徳の副教材です。教科書予算が削減される中で、「心のノート」には7億3000万円もの予算が割かれました。2003年度予算案にも3億円がつけられており、文科省は本気でこのノートの利用を徹底しようとしています。
 国がこうした副教材を作り、全国一律に配布するのは戦後はじめてのことであり、まるで「国定教科書」ででもあるかのようです。
 ただの副教材のはずなのに、文科省はノートを使用して授業を行えという趣旨の指導を各教育委員会に送りつけ、使用状況も調べはじめています。「強制しない」と言いながら、「調査」を通して全国一律に強制しようとする。まさに、「国旗・国歌法」と同じやり方です。
『心のノート』は、小学校低・中・高学年用と中学生用の4種類があり、どれもパステル調の色合いで、ぱっと見ると楽しそうな感じがしますが・・・。
内容は、全種類とも4章で構成されています。
1章は、自分自身について。向上心を持て。輝く自分になろう。努力ってすばらしいなどとうたいます。
2章は他人とのかかわり。友だちをたくさん作り、お互いに認め合っていかなければならないと教えてきます。
3章は自然や命とのかかわり。自然を大切にし、命の大切さを伝える章です。
そして4章は最もページを割いている章で、集団や社会とのかかわり。約束、きまり、法を守る。学校はすてきなところ。みんなのために生き、家族も大切にし、故郷や日本の文化は尊重しなくてはならないそうですよ。
この、善ばかりを取り上げたノート。一見もっともなようなことが書かれてはいるのですが、何かひっかかりませんか?「どこから読んでもよく、正解もない」と言ってはいます。でも、「望まれるような答えを出すように」と言われているような気がします。
(ようこそ〈子どもと法 21〉ホームページより引用)

といったものだ。
みなさんは第一印象としてこれをどう捉えるだろう。
私は授業が進むにつれ、深い憤り、怒りを覚えた。
いったい行政は何がしたいんだろう。
ホントに莫大な資金、時間を用いて作り出したものがこれなのだろうか?
まるで小学生の自由研究、いやそれ以下だ。
こんなことをやるなら、『スラムダンク』や『ちびまる子ちゃん』を読んでいたほうが学ぶことが多いだろう。
そもそもこんな1冊の本に道徳教育を収めようという考え方が間違っている。
人間は一人一人違ってその個性を尊重しなければならない、ということくらい行政だって分かるだろう。
行政はこの本を使って教育を受けた子供が、この本に描かれるような「正しい」子供になると本気で思っているのだろうか?
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
この本によって作り出される生徒は、確かに生徒の理想ではあろう。
それはあくまで理想でしかない。
こんなスムーズに教科書通りにうまくいく教育などありえない。
今の子供が荒れていると言っているのではない。
最終的にはこういう状態に導くのが教師の役目でもある。
しかし、教育には時期やタイミングというのが大事なんだと思う。
個々に見合った指導をするべきなんじゃないのか?
この本はそれを全く無視している。
私に言わせれば、これは人間ではない。
行政によって作り出された、個性も人格もない、人間でもなんでもない生き物だろう。
現場を知らないから、行政はこんなことが平気で書けるんだ。
『学習指導要領「総則」』のなかで、道徳教育については配慮事項として、「校長や教頭の参加、他の教師との協力的な指導について工夫すること」との記述があるのだから、もっと個々の教師の独自な道徳授業を尊重するべきではないのか?
そして、ノートには生徒が質問に対して答える記入欄がある。
その質問のひとつに、
「あなたはいま、どんな集団の一員として生活しているのでしょうか。そしてそこではどんな立場にいて、どんな役割があるのでしょう。」
というのがある。
もし、担任の指導力不足でクラスがうまく形成・機能していなかったらどうだろう。
もし、ある生徒がクラスの中でうまくいってなかったらどうだろう。
こんな質問を押し付けられたらますます自己嫌悪に陥ってしまうのではないか?
先にも述べたが全くタイミングや時期を無視している。
記入するというやり方もどうだろう。
文字は確かに素晴らしい文化だ。
しかし、文字である限りどうにでも書ける。
学歴社会の中に押し込まれた子供たちは、この道徳の授業がいつ何時成績に入ってしまうか、という無言のプレッシャーがあるんじゃないか。
奇麗事などすぐに書ける。
ホントの道徳教育は、教師と生徒、クラス全体で言葉をぶつけ合って議論するとこにあるんじゃないか?
また『心のノート』は「学校と家庭との心の架け橋となる冊子」とも書いてある。
紙面の言葉で教師と親との信頼関係が生まれるはずがない。
紙面で済まして楽したいだけだろう。
書いてあることにはうなずけるが、全くのゴミだ。
以上が私の見解である。

書いてくうちにイライラしてきてうまく書けなかったが、ぜひみなさんの意見をお願いします!

今日およそ一年ぶりくらいに学校行くのが楽しみだった。
土曜日のゼミコンパの影響が大きい。
やっぱ大学なんてひとつくらい楽しいことないと行けないよ。
まあ寮が楽しいからいいんだけど。
いや!よくないわ・・・
気分がいいと人にもやさしくなれますね。
二年目にしてようやく大学生活が軌道に乗り始めたか!?
新たなスタート!!!
CHARAの『レモンキャンディ』を聴いたら気分にぴったりだ☆☆☆

祝☆掲示板完成

2004年5月11日 future
みなさ〜ん!!!
ついに掲示板できましたよ!!!
プロフィールのリンクのとこに設置しました!!
携帯でご覧になっている方は、掲示板だけ別にお気に入りに入れておいていただけると見やすいと思います。

そういえば昨日の日記に書いた小出監督の本の中で
「日の丸と『君が代』に敬意を表せる選手」
というタイトルで書かれている文がある。
最初は愛国心を持つことの大切さなど書かれていたから良かったのだが、最後のほうの一文に
「最近の若い人たちの中には、一度も国歌を歌ったことがない人や、国旗を見たことがない人がいるようだ。
私はこんなことではいけないと思う。
日の丸は国旗であり、国旗に対しては敬意を表すべきだということを小さい頃からきちんと教えておく必要があると思う。
それはむしろ躾だ。
理屈ばかり先に教えるのではなく、まず躾けることだ。」
という文があった。
果たしてそうだろうか?
愛国心は躾けるものなのだろうか?
それは洗脳と言うべきなんじゃないだろうか?
愛国心は教育で教えるものなんだと俺は思う。
そのために、学校で日本の地理をやったり、歴史をやったり、国語という教科があるんじゃないだろうか?
日本のことをきちんと教えもせずに愛国心を「躾ける」などと言うことはもってのほかだと思う。
そんなことで身に付いたのは愛国心とはかけ離れているし、子供からしたら、受験のために覚えた知識としか考えられないだろう。
小出監督が言う愛国心は戦前の忠君愛国時代の考えじゃないだろうか。
確かにいま若い人は、自分も含めて愛国精神が希薄だ。
みんな日本が嫌いなわけじゃないのだが、何が誇れるものなのかはっきり分からないのだ。
胸をはって他国の人と議論なんてできるわけがない。
自分で気付くことには限界がある。
そのために教育という行為があるわけだし、学校があるのだ。
愛国心はやはり躾ではなく、教育という過程で、学校が、家庭が教えるべきことだろう。
大人たちも今一度日本について考えなければならない時代なんだ。

それにしても今日暑かったですね!
夏の匂いがしてわくわくしたけど・・・
やっぱ高校の時とか思い出すなぁ。
しみじみ・・・
そんな「今日暑いね」なんて一言も掲示板に書き込んでください!

風邪を引いてしまった。
喉の痛みと咳が最悪だ・・・
今週陸上の大会なんだけど、もう棄権を決意。
練習不足、風邪、やる気のなさ。
走れるわけがない。
言い訳だけは一流のアスリートなんです。
来週からは走りたい・・・

今日村上龍の「ラッフルズホテル」という本を読み出した。
読み出した瞬間に自分には合わない気がしたからやめた。
いま吉田和子さんの教育実践の本とか、欲しい本がかなりある。
明日買いに行こうと思う。
誰か「ラッフルズホテル」読んだことある人いたら、あらすじ教えてください。

誰にでも思い出して切ないことってありますよね。
夜風が心地良いです。
今日はタクからリクエストのあった
「宿題をやってこない生徒をどうするか」
について考えてみた。
とりあえず徹底して宿題はやらせる。
どっちでもいいなんてことはあってはならない。
よく生徒の自主性に任せるなんて誇らしげに言う先生がいるが、それは無責任を自分で認めているんじゃないだろうか?
言い訳としか言いようがない。
そもそも自主性に任せて成長する人間なんていない。
いるとしたら天才といわれるホントにわずかな人だろう。
とにかくどんな事でもそうだがやりきることが大事だ。
でも、やれと言っているだけでやらない。
やはり担任がやり遂げるまで目をかけなければ駄目だ。
教室の目立つ所に表を貼る。
宿題をやってきた生徒には、目立つように○をつける。
人は誰でも褒められれば嬉しいものだ。
最初からできた子は、褒められることによって宿題をやることが当たり前に思えるようになる。
言わなくてもちゃんとやってくるようになる。
×は付けない。
人によっては人間的にも否定されたように感じてしまうからだ。
やってこなかった生徒には、付きっきりで最後までやらせる。
やったらしっかり褒めてやる。
手伝ったにしろその子は最後までやったのだ。
やり切ること、そしてそれを継続することが大事なんだと思う。
どんなことでも理由を話したいと日記で言ったが、それは時と場合によっては必要ないってことに気付いた。
宿題は理由云々よりもやらなきゃいけないことなんだ。
人は誰しも自分がいる「場所」でやらなきゃいけないことがある。
会社であれば仕事がそうだし、学校であれば宿題はやらなきゃいけない。
だけど、ただやるだけでは意味がない。
物事を最後までやり遂げることによって、その大切さ、達成感の素晴らしさ、そういった積み重ねが様々な場面での自信につながるということを学んで欲しい。
先生は宿題などやってくるのが当たり前だと考えている人がほとんどだろう。
しかし、その当たり前のことができないのがいまの子供なのだ。
家庭でのしつけが放棄され学校に押し付けている以上、それは学校が、教師が教えなければならないことだろう。
そういう考えになったけど、どうかな?
まだ説得力に欠けるから考える必要はあるなぁ。

土曜日の日記にも書いたんだけど、酔ってやってことが原因でいま最悪なことになっている。
しかも、自分では覚えてない・・・
ふらふらになって寮に戻ってきて、先輩に絡みまくって、水ぶっかけられたり、脱がされたりしたことまでは覚えているんだ。
どうやらそのときに先輩から
「お前ゲイだろ」
って言われて、俺は
「当たり前ですよ、○○○○ゲイですから」
とか返してしまったらしい・・・
(俺のフルネーム知っている人なら分かると思うが・・・)
次の日から、何にも覚えていない俺は毎日先輩たちに会うたびに(しかもその場にいなかった人にまで伝わってた!)
「おい、ゲイ」
とか言われるし、笑いながらシカトまでされる始末・・・
まあ冗談って分かってるし、先輩たちにいつもすごいかわいがってもらってるからいいんだけど。
けど、こういうの差別だよね。
ごめんなさい。

今日一日で小出義雄の「君ならできる」という本を読んだ。
指導者のあり方、人間的に強くなるための人としてのあり方、挨拶の大切さ、俺がよく言っている本心をちゃんと口に出して伝えることの大切さ、などが書かれている。
高橋尚子のことを書くことに重点が置かれているためにその辺のことは深く書かれていないのが残念だったが仕方ない。
けれど随所にいい事が書いてある。
教育論、人間論、指導論のことが広く書かれているのは良かった。
そういったことを断片的に知るには、ちょうどいい本だと思う。
かなり読みやすいから、中学生でも一日で読んでしまうだろう。
興味のある方はどうぞ!!!
もう少しで「ぼくは勉強ができない」が読み終わる。
読みながら、気がついたらよくやっているイメージトレーニング「自分が教師になったときに起こりうる問題に対する対処案作成」をやっていた。
考えてもすぐ忘れるから、これからは日記に書いておこうと思う。
サクセスストーリーであることが多いがご了承願いたい。
同時にぜひ客観的な意見が聞きたいので、感想をお願いします。
とりあえず、記念すべき第1回は(笑)
「新学期最初の、または転校生で自己紹介ができない子がいたら」
まず無理に頭を下げさせるのはよくない。
いま読んでる本から学んだことだが、確かに頭を下げることは人に無理矢理させられるものではない。
できない子にはその場では無理にはやらせない。
その子に宿題(目標)として与えようと思う。
そうすることによって、次の日からいじめが発生する可能性がある。
それに対してはまた後で述べたい。
その日のうちに生徒と面談。
おそらく当たり前の「なぜ何にも言わないんだ」
なんて事聞いても生徒は何も答えないだろう。
答えは、
「言えないから」
だから。
言えないことに生徒は困っているのだ。そこで俺は違うことを尋ねてみる。
「自己紹介はできるならやりたいだろ?」
大方の生徒はイエスだろう。
ここで自己紹介をすることによって誕生するプロセスを話して生徒を一押ししようと思う。
自分の名前を言うことによって、周りの人が自分が誰であるかを少なからず記憶してくれる。
それによって生まれるメリットは、
相手が誰か分かっていることにより相互ともに会話がしやすくなる
→いろんな人との会話によりクラスに親近感が生まれる
→(教師の最初のクラス作りがうまく行けば)生徒がぶつかり合いを繰り返しながら、様々なことを相手から学び、自分のことを知ることができたり、ぶつかり合った相手との間に、同時にクラス全体に一体感が生まれる。
生徒により自発的にクラスが形成されるのだ。
相手の名前がわかっている方が知らないより話しやすいなんてことは、誰もが意識してないとしても理解してくれるだろう。
うまく行き過ぎのようにも思うが、十分起こりうることであるし、こうならなければいけないのだ。
もう一つ付け加えて生徒に話をする。
自分の名前を周りの人に声に出して伝えるということは、自分を大切にすることにつながるものだ、という話したい。
そもそも声とは地に足を着けて発する。
地に足を着けているのは生きている証拠だ。
そして、自分の名前を言うということは、自分はいまここに立って生きている!と一番表現できることだと思う。
自分は生きていると意識・実感することは自分を大切にすることにつながるだろう。
人間一人一人が持つ最高の宝物は「言葉」だと思う。
声に出すということはとても大切だということも伝えたい。
頭の中で考えていることも声に出すことによって、さらに意識できたり、新たな発見があったり、記憶に残せたりするものだ。
そして先述のいじめの可能性だが、未然に防ぐためとともに、いま述べたことは伝えたいことであるから、全員に話して理解を得たいと思う。
できれば自己紹介ができない子ができるようになるまで、さっきのことをより深く理解してもらうためにもクラスの生徒全員に自己紹介をやってもらいたい。
これができたなら、一気にクラスの連帯感が生まれるんじゃないかと思う。
以上が俺なりの対処法だ。
今回はそれなりにいい結論が出た気がする。
いつも考えていることよりテーマが軽いというのもあったと思うが…
こういうことをやるようになったのは、去年の夏明けくらいからだろうか。
もう今まで何回やったか分からない。
中にはかなり難しいテーマでやったりして悩んだものだ。
結局答えは出なかったが、答えが出なくても当然な問題もあるものだ。
その時なりの考えを今読み直したいなぁ・・・
何人かの人とは議論も交わした。
そのたびに新たな発見があったのを覚えている。
高橋君とチャットで「ハンセン病についてどう生徒に話をするか」について議論したことはかなり覚えている。
教師である以上、変な話し方をすれば思想的な問題があると学校側から指摘される、と高橋君から言われて、自分なりの答えはそれで崩れた。
ほんとに難しい・・・
あのときは相当あのことで考えた。
未だに考えている。
こんなことしても無駄なくらい、現場はもっと厳しいことは分かっている。
しかし、大学卒業してなんの目標もなしに教師になったやつが受け入れられる時代は終わったし、そんなやつは居てはならないと思う。
一日たりとも気を抜いてはならない。
教師が気を抜いてる間に、自殺してしまう子だっているのだ。
とりあえずは「大学生」の俺が考えた指導案を持って教師になりたい。
すぐさま打ち砕かれても構わない。
1から考え直せばいいのだから。
教師の仕事とはその繰り返しなんだと思っている。

携帯の充電が切れたから学校のパソコンから書き込んだ。
あぁ・・・早く帰りたい。
本はさっき読み終わった。
ほんとに良い本だった。
kei

最新の日記 一覧

<<  2025年7月  >>
293012345
6789101112
13141516171819
20212223242526
272829303112

お気に入り日記の更新

日記内を検索