5月5日の日記

2004年5月5日 mental
いま山田詠美さんの「ぼくは勉強ができない」という本を読んでいる。
その中で、主人公の友人が亡くなる場面があった。
「こんな時、変に冷静なぼくたちは、情の薄い人間なのだろうか。けれども、片山の生活には関わっていなかったのだ。失った悲しみに涙することなんて、できるわけがない。」
という文があった。
昨日の自分の気持ちはこんな感じだった。
夜、豊橋にいる友達から電話があった。
「お前いまどこにいるの?いまお通夜行って来たよ。何でこないの?」
俺は昨日の日記に書いたようなことを正直に言ったが、
「ふ〜ん、それでもみんな結構来てたよ」
って言われた。
そんな気持ちでも行くべきだったのだろうか。
俺にはわからない・・・
友達は付け加えて、
「今週土曜に仕事で東京いくから会おうよ」
なんてことも言ってきた。
きっとあいつは悲しいなんて言っていたけど、それは自分を満足させるための悲しみじゃないの?って聞きたい。
これは俺の考えだが、もう義理なんて必要ないと思う。
義理の悲しみが彼女に何を与えるのだろうか?
義理の焼香によって彼女は何を思うだろうか?
そしていまこうやって日記に書いていることも、きっと自分自身を正当化するためなんだと思う・・・
けれど、俺なりにいろいろ考えたほど、彼女の死は衝撃だった。
そして、彼女はもうこの世にいないという事実を信じることはできない。
もしかして、葬式とかに行くのは現実を受け止めるためでもあるのだろうか?
でも、そんな理由で行きたくはない。
どんな行動が正しいなんてないと思うが、昨日の俺の行動は間違ってなかったと誰かに認められたい自分がいる。

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kei

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