『心のノート』について私はこう考える
2004年5月24日 future今日『道徳教育の研究』の授業で文部科学省が新たに行なっているファシズム教育の実態を知ってしまった。
それは『心のノート』といわれるものだ。
と言っても、何のことか分からない人が多いと思うので簡単な説明文を引用したので読んでいただきたい。
といったものだ。
みなさんは第一印象としてこれをどう捉えるだろう。
私は授業が進むにつれ、深い憤り、怒りを覚えた。
いったい行政は何がしたいんだろう。
ホントに莫大な資金、時間を用いて作り出したものがこれなのだろうか?
まるで小学生の自由研究、いやそれ以下だ。
こんなことをやるなら、『スラムダンク』や『ちびまる子ちゃん』を読んでいたほうが学ぶことが多いだろう。
そもそもこんな1冊の本に道徳教育を収めようという考え方が間違っている。
人間は一人一人違ってその個性を尊重しなければならない、ということくらい行政だって分かるだろう。
行政はこの本を使って教育を受けた子供が、この本に描かれるような「正しい」子供になると本気で思っているのだろうか?
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
この本によって作り出される生徒は、確かに生徒の理想ではあろう。
それはあくまで理想でしかない。
こんなスムーズに教科書通りにうまくいく教育などありえない。
今の子供が荒れていると言っているのではない。
最終的にはこういう状態に導くのが教師の役目でもある。
しかし、教育には時期やタイミングというのが大事なんだと思う。
個々に見合った指導をするべきなんじゃないのか?
この本はそれを全く無視している。
私に言わせれば、これは人間ではない。
行政によって作り出された、個性も人格もない、人間でもなんでもない生き物だろう。
現場を知らないから、行政はこんなことが平気で書けるんだ。
『学習指導要領「総則」』のなかで、道徳教育については配慮事項として、「校長や教頭の参加、他の教師との協力的な指導について工夫すること」との記述があるのだから、もっと個々の教師の独自な道徳授業を尊重するべきではないのか?
そして、ノートには生徒が質問に対して答える記入欄がある。
その質問のひとつに、
「あなたはいま、どんな集団の一員として生活しているのでしょうか。そしてそこではどんな立場にいて、どんな役割があるのでしょう。」
というのがある。
もし、担任の指導力不足でクラスがうまく形成・機能していなかったらどうだろう。
もし、ある生徒がクラスの中でうまくいってなかったらどうだろう。
こんな質問を押し付けられたらますます自己嫌悪に陥ってしまうのではないか?
先にも述べたが全くタイミングや時期を無視している。
記入するというやり方もどうだろう。
文字は確かに素晴らしい文化だ。
しかし、文字である限りどうにでも書ける。
学歴社会の中に押し込まれた子供たちは、この道徳の授業がいつ何時成績に入ってしまうか、という無言のプレッシャーがあるんじゃないか。
奇麗事などすぐに書ける。
ホントの道徳教育は、教師と生徒、クラス全体で言葉をぶつけ合って議論するとこにあるんじゃないか?
また『心のノート』は「学校と家庭との心の架け橋となる冊子」とも書いてある。
紙面の言葉で教師と親との信頼関係が生まれるはずがない。
紙面で済まして楽したいだけだろう。
書いてあることにはうなずけるが、全くのゴミだ。
以上が私の見解である。
書いてくうちにイライラしてきてうまく書けなかったが、ぜひみなさんの意見をお願いします!
今日およそ一年ぶりくらいに学校行くのが楽しみだった。
土曜日のゼミコンパの影響が大きい。
やっぱ大学なんてひとつくらい楽しいことないと行けないよ。
まあ寮が楽しいからいいんだけど。
いや!よくないわ・・・
気分がいいと人にもやさしくなれますね。
二年目にしてようやく大学生活が軌道に乗り始めたか!?
新たなスタート!!!
CHARAの『レモンキャンディ』を聴いたら気分にぴったりだ☆☆☆
それは『心のノート』といわれるものだ。
と言っても、何のことか分からない人が多いと思うので簡単な説明文を引用したので読んでいただきたい。
文部科学省が2002年4月から、国公立・私立を問わず全ての小・中学生に配布しはじめた道徳の副教材です。教科書予算が削減される中で、「心のノート」には7億3000万円もの予算が割かれました。2003年度予算案にも3億円がつけられており、文科省は本気でこのノートの利用を徹底しようとしています。
国がこうした副教材を作り、全国一律に配布するのは戦後はじめてのことであり、まるで「国定教科書」ででもあるかのようです。
ただの副教材のはずなのに、文科省はノートを使用して授業を行えという趣旨の指導を各教育委員会に送りつけ、使用状況も調べはじめています。「強制しない」と言いながら、「調査」を通して全国一律に強制しようとする。まさに、「国旗・国歌法」と同じやり方です。
『心のノート』は、小学校低・中・高学年用と中学生用の4種類があり、どれもパステル調の色合いで、ぱっと見ると楽しそうな感じがしますが・・・。
内容は、全種類とも4章で構成されています。
1章は、自分自身について。向上心を持て。輝く自分になろう。努力ってすばらしいなどとうたいます。
2章は他人とのかかわり。友だちをたくさん作り、お互いに認め合っていかなければならないと教えてきます。
3章は自然や命とのかかわり。自然を大切にし、命の大切さを伝える章です。
そして4章は最もページを割いている章で、集団や社会とのかかわり。約束、きまり、法を守る。学校はすてきなところ。みんなのために生き、家族も大切にし、故郷や日本の文化は尊重しなくてはならないそうですよ。
この、善ばかりを取り上げたノート。一見もっともなようなことが書かれてはいるのですが、何かひっかかりませんか?「どこから読んでもよく、正解もない」と言ってはいます。でも、「望まれるような答えを出すように」と言われているような気がします。
(ようこそ〈子どもと法 21〉ホームページより引用)
といったものだ。
みなさんは第一印象としてこれをどう捉えるだろう。
私は授業が進むにつれ、深い憤り、怒りを覚えた。
いったい行政は何がしたいんだろう。
ホントに莫大な資金、時間を用いて作り出したものがこれなのだろうか?
まるで小学生の自由研究、いやそれ以下だ。
こんなことをやるなら、『スラムダンク』や『ちびまる子ちゃん』を読んでいたほうが学ぶことが多いだろう。
そもそもこんな1冊の本に道徳教育を収めようという考え方が間違っている。
人間は一人一人違ってその個性を尊重しなければならない、ということくらい行政だって分かるだろう。
行政はこの本を使って教育を受けた子供が、この本に描かれるような「正しい」子供になると本気で思っているのだろうか?
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
この本によって作り出される生徒は、確かに生徒の理想ではあろう。
それはあくまで理想でしかない。
こんなスムーズに教科書通りにうまくいく教育などありえない。
今の子供が荒れていると言っているのではない。
最終的にはこういう状態に導くのが教師の役目でもある。
しかし、教育には時期やタイミングというのが大事なんだと思う。
個々に見合った指導をするべきなんじゃないのか?
この本はそれを全く無視している。
私に言わせれば、これは人間ではない。
行政によって作り出された、個性も人格もない、人間でもなんでもない生き物だろう。
現場を知らないから、行政はこんなことが平気で書けるんだ。
『学習指導要領「総則」』のなかで、道徳教育については配慮事項として、「校長や教頭の参加、他の教師との協力的な指導について工夫すること」との記述があるのだから、もっと個々の教師の独自な道徳授業を尊重するべきではないのか?
そして、ノートには生徒が質問に対して答える記入欄がある。
その質問のひとつに、
「あなたはいま、どんな集団の一員として生活しているのでしょうか。そしてそこではどんな立場にいて、どんな役割があるのでしょう。」
というのがある。
もし、担任の指導力不足でクラスがうまく形成・機能していなかったらどうだろう。
もし、ある生徒がクラスの中でうまくいってなかったらどうだろう。
こんな質問を押し付けられたらますます自己嫌悪に陥ってしまうのではないか?
先にも述べたが全くタイミングや時期を無視している。
記入するというやり方もどうだろう。
文字は確かに素晴らしい文化だ。
しかし、文字である限りどうにでも書ける。
学歴社会の中に押し込まれた子供たちは、この道徳の授業がいつ何時成績に入ってしまうか、という無言のプレッシャーがあるんじゃないか。
奇麗事などすぐに書ける。
ホントの道徳教育は、教師と生徒、クラス全体で言葉をぶつけ合って議論するとこにあるんじゃないか?
また『心のノート』は「学校と家庭との心の架け橋となる冊子」とも書いてある。
紙面の言葉で教師と親との信頼関係が生まれるはずがない。
紙面で済まして楽したいだけだろう。
書いてあることにはうなずけるが、全くのゴミだ。
以上が私の見解である。
書いてくうちにイライラしてきてうまく書けなかったが、ぜひみなさんの意見をお願いします!
今日およそ一年ぶりくらいに学校行くのが楽しみだった。
土曜日のゼミコンパの影響が大きい。
やっぱ大学なんてひとつくらい楽しいことないと行けないよ。
まあ寮が楽しいからいいんだけど。
いや!よくないわ・・・
気分がいいと人にもやさしくなれますね。
二年目にしてようやく大学生活が軌道に乗り始めたか!?
新たなスタート!!!
CHARAの『レモンキャンディ』を聴いたら気分にぴったりだ☆☆☆
コメント