大田堯氏から学ぶ人間観とそれに基づく私が考える教育のあり方
2004年12月16日 future「実際、いろいろな与件にとりかこまれながらも、自ら分別し、選んで生きる人間は、逆転の○○だと言ってもよいと思いますす。」という大田堯氏の見解に対する私が考えた意味を、自らの体験を例にして以下に説明する。
私は、中学校へ入学してから高校を卒業するまでの六年間、陸上部に所属し、日々練習に励んできた。
中一の時に初めて出場した大会では、初めての大会にしてはかなり良い記録を出し上位に入賞することができた。その後の大会でも記録は順調に伸び、途中低迷した時期もあったが、中三の時には個人種目・駅伝共に県大会に出場することができた。
しかし、高校に入学してから私の置かれる立場は一変した。
高校進学においては、中学の頃から自分に声をかけてくれてて、私がぜひ陸上指導を乞いたいと願っていた先生がいる高校を目指した。努力の甲斐あって合格し入学したものの、その先生は自分と入れ違いに転勤してしまい、代わりに入ってきた先生に指導を受けることになった。
新しく入ってきた先生とは、あらゆることに関して全く折り合いが合わず、高一の時は常に反発をしていた。自分のスタイルを貫いていこうなどと愚かなことを考え、無理な練習を繰り返していたために記録を伸ばすどころか、怪我の繰り返しで大会にすら出場できない日々が続いた。そのため、個人種目では全く結果を残すことができず、また駅伝でも県大会は選手として走り、名岐駅伝という岐阜〜名古屋間で行われる(テレビ放映まである)大会に出場する権利を獲得することに貢献したにもかかわらず、肝心な名岐駅伝には大会前に怪我をしてしまいメンバーから外されて走ることができなかった。
高二になってからは、さすがにこのままでは駄目だと反省し心を入れ替え、個人種目のことは視野に入れず駅伝のことだけ考えて走るようになった。先生の指導もきちんと聞くようになり、しっかり練習したことで自然と個人の記録も伸びた。そして、迎えた駅伝シーズン、県大会直前に調整として出た大会で自己ベストを一分半縮める記録を打ち出した。しかし、そのレースが終った後でのクールダウンで肉離れをしてしまい、結局その怪我が長き、当日は走ることができなかった。県大会では仲間が精一杯頑張ってくれた結果、八位に入賞し公立高校としてはかなりの快挙を成し遂げ、再び名岐駅伝の出場権を獲得した。その後、名岐駅伝までは時間があったので、治療に専念することができ、調子も大会に向け上げていくことができた。だが、大会二週間前、とんでもない大怪我をしてしまった。後に分ったことだが、手術しても治らないほどのものだった。しかし、私は歩くのも足を引きずらなければならないほどであったのにも関わらず、痛み止めを飲み毎日走り続けた。「一生歩けなくなってもいい。」という覚悟で大会に出ることだけを考え練習を続けた。でも結局怪我が良くなることはなく、私は走ることができなかった。
その時、名岐駅伝を走ることを人生の目標としていた私は本当に生きる目標を失ったように感じた。大会が終った次の日からしばらく、生まれて初めて部活を無断でサボりだした。授業にも出ず泣き、家でも泣き続けていた。もうこの先どうしていいのか分らないという状態だった。あの時ああしていたら・・・なんてことばかり考えていた。あらゆることにおいて自分は選択をミスし続けたのではないかと、高校生活三年間の全てに対して後悔をしていた。
しかし、いまはどうだろう。心のそこから全てはこれでよかったと感じている。思えば高校の陸上生活は怪我に始まり怪我に終るという本当に苦しい三年間だった。そして、あの頃は三年間で得たものは何もなかったなどと思っていたが、それは大間違いであった。なぜなら、将来自分が教師となり陸上部の監督となったときには、現役時代に輝かしい道を歩み監督となった人とは違い、本当に苦しい経験をしてきた私は、挫折し苦しんでいる選手たちの気持ちを誰よりも理解することができると思っているし、なによりも私は高校三年間、あの場所の陸上部で過ごしたからこそ、かけがえのない仲間たちと出会うことができたからだ。いまでも続けているバンドのメンバーは全員高校が違うのに「陸上競技」というものを通じて出会った仲間であるし、また困ったとき様々な相談をし互いに支えあっているのは、いつも高校の陸上部の仲間である。やはり、「陸上競技」という過酷なスポーツを共にやりぬいた仲間であるからこそ今でも密な関係が続いているのだと思う。そういった、いま自分が大切に思っている人たちは全てあの苦しかった日々と共にいる。これはまさしく、星野富弘氏がおっしゃっている「もしかしたら、失うということと、与えられるということは、となり同士なのかもしれません」という意味なのだと思う。私は、あの頃人生最大の目標であった「名岐駅伝の出場」というものを失ったが、そのことがあったからこそいま自分を支えてくれる「かげかえのない仲間」を得たのである。こういう考えに至るまでには時間はかかったが、今ではますますその思いが強くなっている。
つまり、私がこういった考えに行き着くことができたということが、大田氏がおっしゃっている「逆転の○○」という意味なのではないのだろうか。
また、大田氏が示している「人間は逆転の○○と言える」という人間観を学び、まずは子供に逆転の発想ができるような教育をしなければならないと感じた。
私が思うに、現代の子供は、何か物事の結果に対して一喜一憂すること自体が少なくなっているのではないだろうか。それは、新学習指導要領の完全実施になって,教育現場においても,それまでの結果重視の評価から過程重視の評価へと大きく流れが変わってきたことなどが原因かもしれない。私は、子供が逆転の発想ができるようになるためには、教育現場において、現在の過程重視の評価方法から以前の結果重視の評価方法に戻す必要があるのではないかと思う。従来ではほとんど結果が全てであったから、「やらない子」の評価は悪く、「やった子」の評価は良かった。そのため、大半の子供のうち、評価が悪かった子は親身にそれを受け止め反省し次はしっかりやろうと思い、また、評価がよかった子はそれを喜びまた次も頑張ろうと思っただろう。結果にこだわるからこそ、その物事に対しての執着心が強くなり、失敗したときには悔しいから今度はより頑張ろうという心持ちになり、成功したときには嬉しいから次はより一層頑張ろうという思いが作用するのではないか。また、結果に執着するからこそ、私のようにその結果に付随する過程について後に深く思いを馳せ、考えることができ、悪い結果に対しても逆転の発想ができるように思う。そもそも、過程など一体誰が評価できると言うのだろう。行動する本人が「頑張った」と言えば、頑張ったに決まっている。過程を評価するという方が酷ではないか。現実問題、日々生活していく上でいくつもの結果至上主義である場を潜らなければならない。社会に求められるものの大半は結果であり、その結果にこだわるからこそ、その過程にもこだわることができるのだ。過程だけにこだわっていては、物事が成功した、失敗したということに対して、「嬉しい」「悔しい」といった感情を抱くことができなくなるし、結果に対して「嬉しい」「悔しい」といった思いを持った上で過程に目を向けなければ、逆転の発想などできないのだ。
以上が、大田氏が示す人間観から学び、教育のあり方について考えたことである。
私は、中学校へ入学してから高校を卒業するまでの六年間、陸上部に所属し、日々練習に励んできた。
中一の時に初めて出場した大会では、初めての大会にしてはかなり良い記録を出し上位に入賞することができた。その後の大会でも記録は順調に伸び、途中低迷した時期もあったが、中三の時には個人種目・駅伝共に県大会に出場することができた。
しかし、高校に入学してから私の置かれる立場は一変した。
高校進学においては、中学の頃から自分に声をかけてくれてて、私がぜひ陸上指導を乞いたいと願っていた先生がいる高校を目指した。努力の甲斐あって合格し入学したものの、その先生は自分と入れ違いに転勤してしまい、代わりに入ってきた先生に指導を受けることになった。
新しく入ってきた先生とは、あらゆることに関して全く折り合いが合わず、高一の時は常に反発をしていた。自分のスタイルを貫いていこうなどと愚かなことを考え、無理な練習を繰り返していたために記録を伸ばすどころか、怪我の繰り返しで大会にすら出場できない日々が続いた。そのため、個人種目では全く結果を残すことができず、また駅伝でも県大会は選手として走り、名岐駅伝という岐阜〜名古屋間で行われる(テレビ放映まである)大会に出場する権利を獲得することに貢献したにもかかわらず、肝心な名岐駅伝には大会前に怪我をしてしまいメンバーから外されて走ることができなかった。
高二になってからは、さすがにこのままでは駄目だと反省し心を入れ替え、個人種目のことは視野に入れず駅伝のことだけ考えて走るようになった。先生の指導もきちんと聞くようになり、しっかり練習したことで自然と個人の記録も伸びた。そして、迎えた駅伝シーズン、県大会直前に調整として出た大会で自己ベストを一分半縮める記録を打ち出した。しかし、そのレースが終った後でのクールダウンで肉離れをしてしまい、結局その怪我が長き、当日は走ることができなかった。県大会では仲間が精一杯頑張ってくれた結果、八位に入賞し公立高校としてはかなりの快挙を成し遂げ、再び名岐駅伝の出場権を獲得した。その後、名岐駅伝までは時間があったので、治療に専念することができ、調子も大会に向け上げていくことができた。だが、大会二週間前、とんでもない大怪我をしてしまった。後に分ったことだが、手術しても治らないほどのものだった。しかし、私は歩くのも足を引きずらなければならないほどであったのにも関わらず、痛み止めを飲み毎日走り続けた。「一生歩けなくなってもいい。」という覚悟で大会に出ることだけを考え練習を続けた。でも結局怪我が良くなることはなく、私は走ることができなかった。
その時、名岐駅伝を走ることを人生の目標としていた私は本当に生きる目標を失ったように感じた。大会が終った次の日からしばらく、生まれて初めて部活を無断でサボりだした。授業にも出ず泣き、家でも泣き続けていた。もうこの先どうしていいのか分らないという状態だった。あの時ああしていたら・・・なんてことばかり考えていた。あらゆることにおいて自分は選択をミスし続けたのではないかと、高校生活三年間の全てに対して後悔をしていた。
しかし、いまはどうだろう。心のそこから全てはこれでよかったと感じている。思えば高校の陸上生活は怪我に始まり怪我に終るという本当に苦しい三年間だった。そして、あの頃は三年間で得たものは何もなかったなどと思っていたが、それは大間違いであった。なぜなら、将来自分が教師となり陸上部の監督となったときには、現役時代に輝かしい道を歩み監督となった人とは違い、本当に苦しい経験をしてきた私は、挫折し苦しんでいる選手たちの気持ちを誰よりも理解することができると思っているし、なによりも私は高校三年間、あの場所の陸上部で過ごしたからこそ、かけがえのない仲間たちと出会うことができたからだ。いまでも続けているバンドのメンバーは全員高校が違うのに「陸上競技」というものを通じて出会った仲間であるし、また困ったとき様々な相談をし互いに支えあっているのは、いつも高校の陸上部の仲間である。やはり、「陸上競技」という過酷なスポーツを共にやりぬいた仲間であるからこそ今でも密な関係が続いているのだと思う。そういった、いま自分が大切に思っている人たちは全てあの苦しかった日々と共にいる。これはまさしく、星野富弘氏がおっしゃっている「もしかしたら、失うということと、与えられるということは、となり同士なのかもしれません」という意味なのだと思う。私は、あの頃人生最大の目標であった「名岐駅伝の出場」というものを失ったが、そのことがあったからこそいま自分を支えてくれる「かげかえのない仲間」を得たのである。こういう考えに至るまでには時間はかかったが、今ではますますその思いが強くなっている。
つまり、私がこういった考えに行き着くことができたということが、大田氏がおっしゃっている「逆転の○○」という意味なのではないのだろうか。
また、大田氏が示している「人間は逆転の○○と言える」という人間観を学び、まずは子供に逆転の発想ができるような教育をしなければならないと感じた。
私が思うに、現代の子供は、何か物事の結果に対して一喜一憂すること自体が少なくなっているのではないだろうか。それは、新学習指導要領の完全実施になって,教育現場においても,それまでの結果重視の評価から過程重視の評価へと大きく流れが変わってきたことなどが原因かもしれない。私は、子供が逆転の発想ができるようになるためには、教育現場において、現在の過程重視の評価方法から以前の結果重視の評価方法に戻す必要があるのではないかと思う。従来ではほとんど結果が全てであったから、「やらない子」の評価は悪く、「やった子」の評価は良かった。そのため、大半の子供のうち、評価が悪かった子は親身にそれを受け止め反省し次はしっかりやろうと思い、また、評価がよかった子はそれを喜びまた次も頑張ろうと思っただろう。結果にこだわるからこそ、その物事に対しての執着心が強くなり、失敗したときには悔しいから今度はより頑張ろうという心持ちになり、成功したときには嬉しいから次はより一層頑張ろうという思いが作用するのではないか。また、結果に執着するからこそ、私のようにその結果に付随する過程について後に深く思いを馳せ、考えることができ、悪い結果に対しても逆転の発想ができるように思う。そもそも、過程など一体誰が評価できると言うのだろう。行動する本人が「頑張った」と言えば、頑張ったに決まっている。過程を評価するという方が酷ではないか。現実問題、日々生活していく上でいくつもの結果至上主義である場を潜らなければならない。社会に求められるものの大半は結果であり、その結果にこだわるからこそ、その過程にもこだわることができるのだ。過程だけにこだわっていては、物事が成功した、失敗したということに対して、「嬉しい」「悔しい」といった感情を抱くことができなくなるし、結果に対して「嬉しい」「悔しい」といった思いを持った上で過程に目を向けなければ、逆転の発想などできないのだ。
以上が、大田氏が示す人間観から学び、教育のあり方について考えたことである。
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