解夏

2005年2月26日 movie
監督 磯村一路
原作 さだまさし
出演 大沢たかお・石田ゆり子・富司純子・林隆三・田辺誠一


“解夏”という言葉
古来、禅宗の修行僧は、座禅はもとより、師を求めて各寺院を行脚し、托鉢し、修行を積んでいました。しかし、夏の90日間は、「庵」に集まり、共同生活をしながら座禅をする“雨安居”と呼ばれる修行をしました。

もともとインドの陰暦4月から7月は雨季であり、外出するのに非常に不便であったと同時に、虫の卵や草の芽が生じる生命誕生の季節であり、歩くことによって殺生してしまうことを避けるための習慣でした。そのうち、この「庵」に食糧などがまとめて寄進されるようになり、寺院の始まりとなったといわれています。

この雨安居の修行を終えた僧たちは、この間に話し合った互いの「行」に対する捉え方、考え方、接し方の誤りを懺悔しあい再び行脚へ旅立って行きました。この修行の入り(始まり)の日を「結夏」(けつげ・陰暦4月16日、本作品では太陽暦5月27日)、終わる日を「解夏」(陰暦7月15日、本作品では太陽暦の8月23日)と言います。

劇中ではこの「解夏」を、闇の中をさまよう苦しみから解き放たれ、ようやく探り当てた一筋の光を胸に自己を再生し、新しく出発する日と考え、物語全体のテーマとして捉えています。


原作は読んだことないけど、とてもストーリー展開は分りやすくてまあまあ良かったと思う。

ストーリーは「よくある話、よくある展開」の一言で済ますこともできる。
逆に言えば、それほど「身近に、十分起こりうること」とも言える。

この映画を見るまで、「視覚」を失うということなど考えたこともなかった。

大切な人、もの、風景、・・・それらが見えなくなる、見ることができなくなるという恐怖。
想像しただけでも怖い・・・

映画を見ている間、シアター・ブルックの「まぶたの裏に」が頭の中に流れ続けていた。

いま、「見えている」物や人や風景は決して当然ではないということ。
「視覚」があるということの奇跡、、、

日々の風景、大切な人たち・・・・まぶたの裏にはどれほど焼き付けられるだろう。

そして、「音楽」の偉大さ。
「視覚」を必要とせず感じることのできる最高の文化だということ、、、

自分は視覚を失う最後の瞬間、何を見たいんだろう・・・

コメント

kei

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