その夢の続きを作るのは、自分だよ。
2006年5月21日 future夢を見た。
メンバー発表で僕の名前が呼ばれる。
オーダー表にも名前がある。
「ついにやった。」そんな思いで号泣してみんなに知らせる・・・
目が覚めて、現実を突きつけられて、
いつも通り悔しくて泣いた。
この22年間と少しの人生の中で、最大の悔い。
それは、高校時代、名岐駅伝を選手として走ることができなかったこと。
僕は6年経った今も、その悔いと共に生きている。
僕は、名岐駅伝出場1年目も、2年目も、特に2年目は大きな怪我をしていた。
「あのときもっと練習しておけばよかったな。」
そんな後悔なら、まだよかった。
だけれど、違う。
やれるだけのことはやった。
練習中も、メンバー発表の瞬間も、片足一生使えなくなってもいいから、走りたいと思ってた。
それくらい、練習もした。
いまも・・・ほんの少しだけれど、やっぱり思ってる。
結局僕の名前が呼ばれることはなかった。
あの舞台に立つことはできた。
でも、走ることはできなかった。
僕はホントに平凡なランナーだった。
中学時代は、駅伝も個人でも県大会に行くことができたから、まあまあだったと言えるけれど、高校時代は走っては怪我をし、走っても予選も通過できないことが大半だった。
そんな中でも両親はよく応援に来てくれていた。
どういう思いで僕の走りを見ていたかは分からないけれど・・・
あの頃の僕は自分のために全力で走ってるっていう気持ちが強かったように思う。
やっぱり走ることは自分の存在意義であり、誇りであったから。
けれど、いま思うと、そんないつも応援に来てくれる両親をはじめ、応援してくれる家族のために走っていたようにも感じる。
高校時代、僕は勉強も全くできないのに、陸上やバンドに没頭して、親を困らせてばかりいた。
怪我をするたびに、すぐ病院だと言って高い治療費を使わせていたし、シューズやウエアなんかを買うときは僕なんかよりずっと実績のある選手と同じようなものを買わせていた。
心のどこかで、そんな自分を見守ってくれる親に何とかして良いところを見せたいっていう気持があったんだと思う。
自分が命懸けで走っていたのに、果たされなかった目標に対する後悔。
そして、あんなクズみたいな自分をずっと見守って、支えてくれた両親を一度も喜ばしてあげることができなかったという後悔。
この二つの悔いは一生背負っていくものだと思ってる。
けれど、僕にとってはきっとこの二つの悔いが糧になっていくとも思ってる。
二年目の名岐駅伝を走ることができなかったとき、生まれて初めて陸上をやめようと思った。
それ以上に生きる意味を見失った。
自分の生きる支えが折れてしまっていた。
それまでの6年間一度もサボったことがなかった部活をサボり続けて、最後に中学時代の恩師を頼った。
「お前は将来必ず良い指導者になれる。その怪我をした挫折や苦しみはお前にしか分かってあげられないことになっていくから。」
そう恩師は言ってくれた。
その頃は、なかなか理解できなかったけれど、いまでこそ、その言葉の意味が分かるようになってきた。
あのころ、僕は名岐駅伝を走ることに本気で命を賭けていた。
全国大会や、国体じゃあるまいし、大げさだとは分かってる。
でも、僕は気持ちの部分では全国選手に負けないくらい走りたいって気持が強かったし、何よりも大きな挫折を何度も味わった。
夢から覚める瞬間、
「その夢の続きを作るのは、自分だよ。」
自分自身からそう言われた。
僕は陸上の指導者になる。
もう絶対に僕みたいな思いだけは選手に味合わせたくない。
僕が名岐駅伝を走ることは二度とできない。
けれど、この夢の続きは必ず自分の手で作り上げる。
最高のサクセスストーリーを僕が育てる選手と共に作ってやる。
そんな思いでいっぱいになった。
メンバー発表で僕の名前が呼ばれる。
オーダー表にも名前がある。
「ついにやった。」そんな思いで号泣してみんなに知らせる・・・
目が覚めて、現実を突きつけられて、
いつも通り悔しくて泣いた。
この22年間と少しの人生の中で、最大の悔い。
それは、高校時代、名岐駅伝を選手として走ることができなかったこと。
僕は6年経った今も、その悔いと共に生きている。
僕は、名岐駅伝出場1年目も、2年目も、特に2年目は大きな怪我をしていた。
「あのときもっと練習しておけばよかったな。」
そんな後悔なら、まだよかった。
だけれど、違う。
やれるだけのことはやった。
練習中も、メンバー発表の瞬間も、片足一生使えなくなってもいいから、走りたいと思ってた。
それくらい、練習もした。
いまも・・・ほんの少しだけれど、やっぱり思ってる。
結局僕の名前が呼ばれることはなかった。
あの舞台に立つことはできた。
でも、走ることはできなかった。
僕はホントに平凡なランナーだった。
中学時代は、駅伝も個人でも県大会に行くことができたから、まあまあだったと言えるけれど、高校時代は走っては怪我をし、走っても予選も通過できないことが大半だった。
そんな中でも両親はよく応援に来てくれていた。
どういう思いで僕の走りを見ていたかは分からないけれど・・・
あの頃の僕は自分のために全力で走ってるっていう気持ちが強かったように思う。
やっぱり走ることは自分の存在意義であり、誇りであったから。
けれど、いま思うと、そんないつも応援に来てくれる両親をはじめ、応援してくれる家族のために走っていたようにも感じる。
高校時代、僕は勉強も全くできないのに、陸上やバンドに没頭して、親を困らせてばかりいた。
怪我をするたびに、すぐ病院だと言って高い治療費を使わせていたし、シューズやウエアなんかを買うときは僕なんかよりずっと実績のある選手と同じようなものを買わせていた。
心のどこかで、そんな自分を見守ってくれる親に何とかして良いところを見せたいっていう気持があったんだと思う。
自分が命懸けで走っていたのに、果たされなかった目標に対する後悔。
そして、あんなクズみたいな自分をずっと見守って、支えてくれた両親を一度も喜ばしてあげることができなかったという後悔。
この二つの悔いは一生背負っていくものだと思ってる。
けれど、僕にとってはきっとこの二つの悔いが糧になっていくとも思ってる。
二年目の名岐駅伝を走ることができなかったとき、生まれて初めて陸上をやめようと思った。
それ以上に生きる意味を見失った。
自分の生きる支えが折れてしまっていた。
それまでの6年間一度もサボったことがなかった部活をサボり続けて、最後に中学時代の恩師を頼った。
「お前は将来必ず良い指導者になれる。その怪我をした挫折や苦しみはお前にしか分かってあげられないことになっていくから。」
そう恩師は言ってくれた。
その頃は、なかなか理解できなかったけれど、いまでこそ、その言葉の意味が分かるようになってきた。
あのころ、僕は名岐駅伝を走ることに本気で命を賭けていた。
全国大会や、国体じゃあるまいし、大げさだとは分かってる。
でも、僕は気持ちの部分では全国選手に負けないくらい走りたいって気持が強かったし、何よりも大きな挫折を何度も味わった。
夢から覚める瞬間、
「その夢の続きを作るのは、自分だよ。」
自分自身からそう言われた。
僕は陸上の指導者になる。
もう絶対に僕みたいな思いだけは選手に味合わせたくない。
僕が名岐駅伝を走ることは二度とできない。
けれど、この夢の続きは必ず自分の手で作り上げる。
最高のサクセスストーリーを僕が育てる選手と共に作ってやる。
そんな思いでいっぱいになった。
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